『侍戦隊シンケンジャー』(2009)31〜36話感想まとめ

 

第三十一幕「恐竜折神」

第三十二幕「牛折神」

第三十三幕「猛牛大王」

第三十四幕「親心娘心」

第三十五幕「十一折神全合体」

第三十六幕「加哩侍」

 


第三十一幕「恐竜折神」


脚本:小林靖子/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
シタリは薄皮太夫が組織を離れてしまい、アクマロが幅を利かせていることが気に食わないので、気晴らしに船の外を歩いているとある物を見つける。一方現実世界では、とある病院に入院していた竜也という少年が医者に隊員が近いといわれて喜んでいると、そこにアヤカシが襲いかかってきた。命辛々逃げ伸びた看護師は源太の屋台を訪ねてシンケンジャーに救援を依頼するが…。


<感想>
ここから3話連続でまたもや玩具販促なのですが…もうね、ここまで玩具販促の物量を詰め込まれると胸焼けがします
流石に前回のあのクオリティとは違い「シナリオ」には一応なっていました…まあ「ストーリー」にまではなってないのですけど。
とはいえ、内容的にどうだったかといわれると、個人的には微妙というか、やっぱり玩具販促と物語がうまく連動してないという違和感は拭えません。
本作は「アンチ00年代戦隊」を志向しているのに、こういうダメなとこだけ00年代戦隊を真似てしまったなあという感じです。


話の内容としては病院を襲った看護師と少年を腐れ外道衆が人質に取ってシンケンジャーを誘き出すというものでしたが、問題は「なぜ病院の少年と看護師でなければならないのか?」という必然性のなさにあります。
というか、やってることがショボいんですよね外道衆って…それに輪をかけたのが今回の話なのですが、そもそも外道衆と腐れ外道衆が「臭い」以外にどう違うのか全くわかりません
はぐれ外道衆はまだわかるんですよ、「外道に堕ちながら人間の体を持っている」という、いってみれば「仮面ライダー555」のオルフェノクみたいなものですから。
そういう平成ライダー的な要素を部分的にもテーマとしても取り込んでいるのはわかりますが、問題はそこ以外の設定の詰めがかなり甘いということです。


あと、恐竜折神も劇場版で出て来ましたけど、もっと劇的に登場するのかなと思ったらごく当たり前のごとく登場してしまったので、ドラマとしての色気もへったくれもありません
一体劇場版がどの時系列の話なのかはわかりませんが、どうにも恐竜折神とインロウマルの設定が衣装のパワーアップも含めて被り気味なので、うまく差別化できてないのが難点です。
というか、もしインロウマルが手に入る前に恐竜折神があったのであればわざわざインロウマルを開発する必然性が薄いですし、インロウマル入手後に手に入ったのであればどうして今まで誰も使わなかったのでしょうか?
例えば今回の話にしたって丈瑠が恐竜折神を使うのであれば他の誰かがインロウマルを使ってもいいし、逆に丈瑠がインロウマルを使うなら他のメンバーが恐竜折神を使ってもいいはずです。
それに加えて、ダイゴヨウ、更に次回は牛折神の販促まであるわけで、物語に対して玩具販促が過剰すぎてイマイチ乗り切れません。


この辺り、やっぱり90年代後半くらいが物語と玩具販促のバランスが一番よかったころというか、物語の中でしっかり玩具販促の意味づけを無理なく行えてましたからね。
ドラマ的に意味があるとすれば、源太の本気の怒りとヒーローぶりを描いたところでしょうか。

 


「馬鹿な…!なにがなんだかわからん。何故あの状態から形勢逆転されているのだ!?」
「簡単だ、てめえらが誰の為にも戦ってねぇからだよ!」


いや、流れで見ていくと形成逆転されたのはどう考えても恐竜折神という圧倒的な武力によるものであって、本作の強さの根拠はあくまでも丈瑠を中心とした圧倒的な侍の強さにあります。
普通の戦隊ならそこに「知恵」とか「チームワーク」とか色々な要素を付け加えるのですが、本作はもうシンプルに「圧倒的な武力」故に強いという身も蓋もない結論に(笑)
なるほど、これもまたある意味では終盤の伏線になっているというか、結局力押しなのだなあというのが見えてしまい複雑な気分に。
アクション自体は凝ってて面白かったので、評価としてはまあC(佳作)位じゃないですかね。


第三十二幕「牛折神」


脚本:小林靖子/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
ある日のこと、シンケンジャーたちの相棒の折神がいつの間にかいなくなっている。慌てて探したところ、屋敷に潜り込んでいた少年のところになぜだか集まっていた。その少年は榊原ヒロという角笛の山から来た少年であり、名前を聞いた彦馬爺は牛折神の名前を口にする。アクマロはその情報を聞きつけ、角笛の山を訪れ封印された牛折神の力を悪用しようと計画していた。


<感想>
開始早々突っ込ませてください…志葉家ってザル警備じゃね!?


いや過去に源太に侵入されたことといい「近日見参」という矢文を飛ばしたことといい、そして今回の榊原少年といい、どうしてこうも警備が手薄なのか?
こういう時のために黒子がいるんじゃないのかと思ってしまうのですのが、アヤカシ以外は人畜無害だからということで放置されてしまっているのでしょうか?
これならまだギンガの森の方が一般人すらも入れないように厳重な結界が貼られているという設定にした方が説得力があります。


で、今回の話のポイントは牛折神ですが、榊原少年の演技が多少棒読みなのはまあ仕方ないとして、牛折神ってなんの為に作られたのでしょうか?
インロウマルはまあ外道衆対策だと納得できるのですが、その外道衆対策とは全く関係ないところで作られたトンデモ折神という設定なので、解釈に困ります。
しかもヒロ少年が勝手に起動させて暴走させる…ヒロ少年、一気に本作の戦犯になってしまいました!


えーっと、まあ玩具販促のためなのですが、外道衆と戦う5つの家柄以外にもモヂカラに優れた家系があることが源太などを通して判明しています。
榊原家もその家系なのでしょうが、確かに今までの折神たちと比べても凶暴度といいスペクタクル感といいはじめて折神に「凄い」と感心しました。
しかし、侍の家系でもないのにこんな物騒なものを開発していたなんて、よく幕府のお偉方に目を付けられずに済んだなと
榊原家が何を目論んでいたのかは知りませんが、そりゃあ丈瑠も却下するはずですよ…こんな危ないもの丈瑠たちでも持て余してしまいますし。


あとこれはもうデザインの設計上仕方ないのかもしれませんが、あまりにも玩具玩具したデザインすぎて他の牛モチーフのロボと比べてもカッコ悪いです。
歴代戦隊で牛モチーフというと、本作以前ではブラックバイソン、黒騎士ブルブラック、ガオブラックあたりが挙げられますが、いずれもロボットはかっこいいデザインでした。
本作の牛折神は江戸時代の牛という和風のデザイン自体はいいのですが、後ろの車輪がダサくて、他の折神もそうなんですけどデザインがダサすぎます
まあ戦隊ロボのデザインは年々落ちていっているのから仕方ないのでしょうが、その予兆は本作あたりから見えていました。


一方、外道衆の方では薄皮太夫が欠けた裏正を回収し、十臓復活に向けて動いているようですが、その辺の物語がうまく連動しません。
一応アクションなどは過不足な入っていたのでいいんですけど、やっぱり評価はC(佳作)であり、またもや中だるみに突入です。


第三十三幕「猛牛大王」


脚本:小林靖子/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
牛折神はシンケンジャーたちであっても止めることは不可能であり、ヒロを乗せたまま遠くへ行ってしまった。5人はヒロの祖父から牛折神に関する悲劇を聞き、丈瑠は幼少期の自分を思い出しながら破壊ディスクを返して牛折神の方へ向かおうとする。途中で外道衆に応戦していた5人の元に倒されたはずの十臓が現れ、裏正が治ったら丈瑠にまた勝負するように言うのだった。


<感想>
さて、牛折神編完結ですが、出来でいうとやっぱり今ひとつだったかなあと…というのも、玩具販促と物語がリンクしていないからです。
外道衆側がようやく動きを見せ始め、死んだと思われた十臓が復活したので終盤に向けての仕込みが行われるというのは良かったところ。
十臓に関しては「まああの程度で死ぬわけがないよね」とは思っていたので、個人的には蘇ってもらった方が盛り上がります。


で、肝心の玩具販促の方なのですが、ヒロと祖父の物語に関してはまあ月並といったところですが、個人的に感動できなかったのは次のセリフです。


「だが、お前達が想いを受け継いでくれたっていうのに、大本の儂がこれじゃみっともない。そうだろ?」


話によれば祖父は息子を死なせてしまったトラウマから孫を近づけさせたくなかったとのことですが、演じている人が元ドクターヒネラーなので、ダメ人間具合が5割増でした。
これは私の持論ですが、スーパー戦隊シリーズといい仮面ライダーシリーズといい、特撮作品に出てくる肉親にはろくな奴がいない印象がありますが、この祖父もまさにそのパターン。
千明の父親はウェーイなパリピでしたし、次回出てくる茉子の父親もかなり酷いですし、丈瑠の父親は「落ちずに飛び続けろ」と指名ばかりを押し付けてくる。
いつかこの「戦隊シリーズに出てくる父親」に関しては並べて考えてみたいのですが、私が中でも強烈に印象に残っている父親の例を挙げてみます。

 


うん、こうして並べてみると見事なまでにダメ人間が多く、辛うじて許せるのはシグナルマン、青山晴彦、浅見会長、小津勇くらいでしょうか。
この4人はなんだかんだ歴代で見てもかなりの人格者な父親という印象があるのですが、後はもう見事なまでに家庭を顧みない奴ばっか
まあ父親は仕事で稼いでなんぼってのがあるんでしょうけど、モンド博士とかは「科学者としては天才だが父親としてはクズ」の典型ですからね。
因みに茉子の父親に関しては次回語りますが、本作に出ている父親の中で人格面に多少問題があったとはいえ、千明の父はまだマシな方です。


そんなこんなで、最終的には猛牛大王として無事に入手したのですが…うーん、決め技がガトリング砲なのはどうなのかなあ?
これは猛牛大王に限った話じゃありませんが、「真剣」と剣術を全面に押し出しているのに、銃が出てくるとちょっとフェアじゃない感じがしてしまいます。
日本には古くから火縄銃もありましたし、戦隊といえば銃というイメージはあるので使うなとは言いませんけどね。
まあそれをいえば、烈火大斬刀大筒モードの時点で既に銃や大砲を使っているじゃねえかということになってしまいますが。


敵側の外道衆がそんなに組織規模大きくないのと、アヤカシの強さがマチマチなのもあって、明らかにシンケンジャー側が過剰武装に見えてしまうんですよね。
これが星をいつでも滅ぼせるような規模の敵組織、それこそ大星団ゴズマや銀帝軍ゾーン、宇宙海賊バルバン辺りのようなレベルならわかるのですが。
どうにも榊原家のドラマと玩具販促とがうまく連携せず、また外道衆側の動きとも絡んでいるわけでもないので、やっぱり盛り上がりきれず。
中澤監督の演出によってそこそこ見られるレベルにはしていますが、それでもやはりスーパーシンケンジャーの時と同じく評価はE(不作)です。


第三十四幕「親心娘心」


脚本:小林靖子/演出:長石多可男


<あらすじ>
ある日、稽古に励んでいた丈瑠達のもとに茉子の父である衛が訪ねてきた。茉子の顔を見て破顔した彼は突然「シンケンジャーを辞めてハワイに行こう」と言い出す。茉子はもちろん丈瑠たちは困惑する一方だったが、衛は一方的にシンケンジャーを辞めさせる手はずを整えていく。その時、外道衆が出現し子供たちを連れ去ろうとするのだった。


<感想>
さて、いよいよやって来ました、茉子メイン回。これまでどこか決定打に欠ける茉子でしたが、ようやくはっきりとしたメイン回をもらえてよかったなと。
でも、できることならもっと早い段階で掘り下げておいて欲しかったのも事実ではあり、こういう話をするなら2クール目くらいには終わらせておいて欲しかったです。


千明は二十一幕という比較的早い段階で父親と関連させた掘り下げを済ませ、後はもうぐんぐん成長していますし、流ノ介は初期の段階で方向性が決まっていました。
ことはも終盤に向けてもう1回掘り下げるための回が残っていますし、キャラの方向性自体は既に第二幕からはっきりしていて、不器用な健気さでうまくキャラを作っています。
源太に関してはまあ異物感は強いですが、あれは不思議コメディの世界からご当地ヒーローがシンケンジャーの世界に間違って紛れ込んでしまったと思えば(笑)
そういった点でいくと、茉子はどっちかというと調整役としている感じで、決して空気ではないけど、いまいち本質の掴みにくいキャラクターとなっていました。


そこで狙い澄ましたかのようにメイン回が来て、しかも「ゴーゴーファイブ」以来となる長石監督のドラマ性重視の演出で贅沢に撮ってもらえたのは幸せだと思います。
個人的に東映特撮で一番「ドラマ」を撮れるのは長石監督だと思うので、高梨氏としても演技面でさらに深みのあるチャレンジができたのではないでしょうか。
特によかったのが父親と2人きりのやり取りでの渋い表情と台詞回しで、外道衆に立ち向かおうとする茉子を止めるシーンのやり取りが秀逸です。


「お父さん何とも思わないの?!子供を心配している人達のことだって見てたでしょ?同じ親じゃない!」
「そうだ、親だよ。親だから自分の子供を安全な場所に避難させたいと思う、身勝手な親だ。茉子、それはお母さんも同じなんだよ」
「そんなこと…だって、だったらどうして、あの時、私も一緒に……置いていかれたと思った。最後までお母さんは私の事なんか目に入らなくて。だからずっと1人で侍になる為に!今になってどうして!」


前半でお気楽に見せていた父親との対比がここで落差として効いてくるのですが、ここでのポイントは「親の心子知らず、子の心親知らず」というすれ違いでしょうか。
千明の時とポイントは似ていますが、千明と千明父の場合は「侍」であることよりも「人間」であることを優先して育てた結果なので、まだ筋は通っています。
それに対して茉子の父親はというと、廃人同然になった母の介護をするために娘を置き去りにして、そのくせ今になっていけしゃあしゃあと父親面をする最低な父親でした。
前回の感想で戦隊シリーズの父親を並べてみましたが、いわゆる「ダメ親父」のカテゴリーに茉子の父も入ることになりました、おめでとうございます!


いやまあモンド博士みたいに、なんの断りもなく息子たちの職場に退職届を出しても悪びれないよりはまだ罪悪感があるだけマシな方なのですけどね。
また、ここで白石親子の話だけで完結してしまうとありがちな昼ドラに堕してしまうのですが、「子供を連れ去られた親たち」を交えることでシンケンジャーの使命にも通じているのが見事です。
この時の白石親子のアップでのやり取りは一度見たら印象に残る絵となっており、こういうのを撮らせたらさすが長石監督だなと…中澤監督もうまいけど、長石監督とはまた違うんだよなあ。
長石監督は割とストレートに感性で被写体を写しているのに対して、中澤監督は情感を大事にしつつもニュートラルなので誰か1人を贔屓するということがありません。
だから、今回のようにロジックよりも情感を優先して撮る場合には長石監督の方が向いているのは事実で、ここで初めて「茉子とはどんなキャラか?」が見えた気がします。


結局茉子の問題点は「親の愛情不足」であり、思えば第一幕で幼稚園の先生をしていたのも、流ノ介やことは、源太が弱った時に抱きしめていたのも、料理を勉強していたのにも全てはそこに起因します。
いってしまえば彼女は「本当は甘えたいのに甘え下手」という点で「タイムレンジャー」のユウリの系譜なのですが、ユウリと違うのは両親を失っていなかったという事実です。
そう、小さい頃に身内を亡くしてずっと女らしさを押し殺して孤高のキャリアウーマンとして生きるしかなかったユウリに対して、茉子は祖母に育ててもらったり両親が生きていたりします。
だからギリギリのところでユウリのようにならずに済み、しかしだからといって千明やことはみたいにストレートに弱さを出して甘えることができないから頼れる姐さんの皮を被り続けている。


二十一幕で千明の父親にすごくいい感じのフォローをしたのも、半分はすくすくと育った千明に対する憧れのようなものがあったのではないでしょうか。
パリピだけど、誰よりも我が子思いで明るく千明を育ててくれた千明父が茉子にとっては凄く眩しく輝いて見えたんじゃないかなあと。
しかも千明父って馴れ馴れしいところはあっても、茉子の父親みたいにシンケンジャーを辞めさせようとしたり、娘をほったらかしにしたりしなかっただけまだいい方だなと。
小林女史としてもおそらく谷家と白石家は対極的な家庭として描かれていて、千明の家が「」だとするなら茉子の家庭は「」だったということでしょう。


そして、それが茉子の心の中に空洞を作っていて、いつでも闇がそこに入り込む隙間があるから、太夫の過去という深淵を覗いた時に、逆に深淵に覗かれることにもなるのですね。
さて、ここで気になるのですが本作はいわゆる世襲制なのですが、そこで代々選ばれているのは一体どういう基準なのでしょうか?
一応志葉家、池波家、白石家、谷家、花織家となっていますが、序盤の展開を見るに「ギンガマン」のような選抜試験がないっぽいのでどうも違ったようです。


「私、侍はやめない。お父さんたちのことを恨んでるわけじゃないし、後悔もしてないから。ただ、あの時ただ…」


これまで凄くわかりにくい人物として描かれてきた茉子ですが、探って見ると本質はとてもシンプルで結局「親の愛情が欲しかった」だけでした。
そういう意味ではシンケンジャーとしてのつながりに一番執着というか依存しているのは実は流ノ介でもことはでもなく、茉子だったのかもしれません。
流ノ介はもう七幕の段階でその思いを消化していますし、ことはもことはで「姉の代わり」ということが引っかかっているだけでしたから。
千明と源太はまあ明るい性格なのもありますが、シンケンジャーという居場所がなくてもある程度動けるようにできていますしね。


そして、そんな親子の愛情すら振り切るように、茉子は改めてシンケンジャーとしての決意を固めて雄叫びを上げ、進んで行きます。
この雄叫び自体はあんまり迫力がなかったのですが、ただこれまで感情を見せてこなかった茉子の静かなる闘志が初めて湧き出た瞬間です。
それこそこんな風に切羽詰まった表情になるのは十二幕で「丈瑠に命預けるよ!」と言った時以来で、あの時もまだ本音を100%出したわけではありません。
だからこそ、茉子は今ようやくこの瞬間に親からの精神的自立を果たし、真のシンケンピンクとして戦う…元々能力は高い方でしたから、ここでの覚醒には納得です。


丈瑠がそのままインロウマルを渡してスーパーシンケンピンクとなりますが、今回はきちっとそこに茉子のドラマが乗っかっていて連動性がありました。
正直スーパーシンケンジャーは初登場が微妙だったのと「殿が不在の時に別のものが代わりで使う」というものだったので、物足りなかったのです。
今回はそうじゃなく、茉子を真のシンケンピンクにするためのドラマツルギーとして、インロウマル「真」が「本当のシンケンピンク」を意味しているようにも見えます。
かなりブーストがかかっていたのか、今回迷いを振り切った茉子はめちゃくちゃ強くてかっこよかったですね、こういうのは好きです。


そしてラスト、ついに廃人状態から復帰してきた母親との再会を果たした茉子は抱擁を交わし、ここでやっと欲しかったものがもらえたのでしょう。
直接的に茉子の抱えている問題が語られませんでしたが、結局のところ母親からの愛情が欲しかっただけであり、茉子はその意味でシンケンジャーのメンバーの中で精神的に子供だったのです。
大人びているようでいて、心の成長は幼い頃からずっと止まったままシンケンジャーになったものだから、あのようになってしまったことにも納得はいきます。
流ノ介をバッサリと「うざいから」と切ったのも、それは子供のように「お前と遊ぶのはもう飽きた」みたいな理屈でしょう。


微妙な回がずっと続いていた「シンケンジャー」ですが、今回の話は久々に脚本・演出ともにクオリティが高く、長石監督がすごくいい仕事をしてみせました。
評価はもちろんS(傑作)、見ごたえのあるドラマをしっかりと見られて満足です。


第三十五幕「十一折神全合体」


脚本:小林靖子/演出:長石多可男


<あらすじ>
流ノ介は親友の新太郎と企画した若手歌舞伎会が開かれるためにホールの近くまで来て、神妙な顔をしていた。自分がシンケンジャーの使命を優先したばかりに公演が中止になりかけなかったからである。当然新太郎は恨んでいたのだが、そんな中外道衆との戦いの中で流ノ介は書道フォンを落として食べられてしまう。前途多難に思われた流ノ介だったが…。


<感想>
前回の茉子姐さん回に続き、今回は流ノ介メイン回。かなり久々の流ノ介単独メイン回でしたが、流ノ介の「私」の1つである歌舞伎役者設定を掘り下げてくれたのは嬉しかったです。
長石演出なのでたっぷり撮ってもらい、改めて流ノ介のいいところも悪いところも全てが詰まったいい回だったと思います、ある1点を除けば。
その1点とは流ノ介が書道フォンを落として敵に食べられてしまうといううっかりをやらかしてしまったことであり、これは流石に物語の流れとして納得いきません。
これならまだ「流ノ介、お前もやりたいことがあるんだろう?頑張ってこい」という感じの流れにした方がよかったと思うんですよね。


で、その流ノ介の親友である新太郎ですが、演じているのは鯨井康介氏であり、なんでこのキャスティングなんだろうと思ったのですが、この2人って「ミュージカルテニスの王子様」で共演しているんですよね。
2人とも二代目・三代目青学で共演していて、相葉裕樹氏が不二、鯨井氏が海堂を演じていたのでその縁で今回のキャスティングとなったのかもしれません。
また、鯨井氏は調べたところによると日本舞踊を小さい頃から嗜んでいたそうで、舞台上での立ち姿や所作、振る舞いがすごく美しいいんですよね。
しかも相葉氏も舞台経験豊富ですから、今回は完全に中の人のネタを優先して作られた感じで、どちらかといえばテニミュファン向けかもしれません。


そういえば東映特撮とテニミュってさりげなく関わりがあって、例えば「ボウケンジャー」の真墨役を演じた齋藤ヤスカ氏はテニミュ比嘉中のメンバーでした。
あと「ゲキレンジャー」のジャンとリオも2代目青学の大石と乾だったりと共演率が高いので、それだけ演技のある若手俳優がここから輩出されたということでしょう。
特によかったのが、無言で流ノ介が舞台に出て動きをシンクロさせるところで、あくまでも仲直りの方法を言葉での謝罪ではなく「舞台でのイメージでの共演」としたのがよかったです。
役者はあくまでも言葉ではなく役を通して舞台上の表現で全てを見せなければなりませんが、尺を長めに取って2人の舞を魅力的に撮ってくれました。


そして、そのあとの別れの挨拶も「いつか戻ってこい」と多くを語らずにあの一瞬で理解し、新太郎にとっても流ノ介にとってもわだかまりがなくなったのです。
ここで共演させてもよかったのですが、それはあくまでもシンケンジャーとしての戦いを終えた後の為に取っておくことで、うまく収まることに。
改めてここで本作における「人間」と「ヒーロー」の関係が強調されており、第一幕から示されていたように、本作は人間性とヒーロー性が反比例の関係にあります。
つまり古典的な人間性=私、ヒーロー性=公であることが流ノ介と新太郎の歌舞伎役者というところから示されているのです。


それは他のキャラクターにも言えることであり、一番「私」の側面が強いのが千明、「公」の側面が強いのが殿であり、このように「公と私」の割合が各キャラで違っているのも見事でした。
そのため、流ノ介がラストで雑踏の中に紛れ込むラストもよくできていて、人知れず消えゆくことによって流ノ介は歌舞伎=私からシンケンジャー=公に戻るのです。
この「公と私」の関係性については終盤でも改めて語りたいところですが、本作は00年代戦隊のベースを踏まえ、一周回って70・80年代戦隊へ逆戻した図式となっています。
まあ要するに「お前今日から〇〇戦隊だから戦え」「イエスボス」なのですが、そこで安易にチームが結束する構図にならず、きちんと段取りを踏まえて描いているのです。
逆にいえば、ここまで人間ドラマを掘り下げて描かないと、そして時代劇という大掛かりなシステムを用いないと、現代の世界観や価値観に合わないということでしょう。


ただし、ドラマは良かったのですが、その後の戦闘シーンはまだしも巨大戦のサムライハオーが事のついでみたいに勢いで生まれてしまったのは非常に雑でした。
また、そのサムライハオーがこれまたクソダサい……一体誰だこんなデザインを通したやつはと小一時間問い詰めたくなってしまいます。
まずあんな過剰にゴテゴテした上にお立ち台に乗って移動っつー時点でダサいんですけど、もっと嫌だったのはピンクとイエローの折神が完全な余剰パーツになっていることです。
ただおまけとしてくっつけました感が見え見えで、どうしてこんなデザインのロボ通しちゃうのかなあ?


私は正直戦隊シリーズにおいて巨大戦ってそこまで重視はしていませんが、「ボウケンジャー」辺りから露骨に目立ち始めたロボット全合体路線は正直嫌いです。
1号ロボ+2号ロボかマトリョーシカ型の要塞ロボならわかりますけど、10体以上もゴテゴテとくっつけて合体とか何を考えてるんだと思ってしまいます。
その点高寺Pなんかはまだ良心的な方で、「カー」「メガ」「ギンガ」の3作はいずれも変な合体をさせずにすっきりした構成でしたからね。
もしこれら3作が00年代にリメイクされていたとしたら、RVロボとVRVロボ、サイレンビルダーが全合体したり、INETのロボットが全合体したり、あるいは全星獣合体があったりしそうです。


そのため、ドラマの部分には見応えがありましたしクオリティそのものは高いのですが、戦闘シーンやロボアクションとのリンクが薄くいまいちだったので評価はA(名作)となります。


第三十六幕「加哩侍」


脚本:大和屋暁/演出:竹本昇


<あらすじ>
ある日のこと、丈瑠たちが源太の寿司を食べている最中にことはは源太にカレーライスを注文してしまう。源太は戸惑いながらも初めてカレーライスを作ってみると、これが意外にも大好評で全員から「美味しい」と評されるほどの出来栄えであった。口コミ人気で客がひっきりなしにやってくるのだが、源太の思いとはズレている。一方外道衆は街中にアヤカシのソギザライを送り込むのであった。


<感想>
大和屋脚本と源太はやっぱり相性がいいなあと思ったのですが、反面こんな雑な話を作ってるから戦隊シリーズがいつまでもワンランク下に見られてしまうのだと思ってしまいました。


というか、そもそもことはがカレー好きなんて設定は今までに語られたことがないんですけど…もしかして「キレンジャーの錯誤」を意図的にやってたりしますか?
仮にその狙いでやっていたとしても微妙な話で、これって要するに「やりたいこと」と「できること」がズレてしまっているという話ですよね。
源太がヒットさせたいのはあくまで寿司であってカレーではないというのはわかるのですが、それを描くには「屋台寿司が繁盛していない」ということを描いておく必要があります。
つまりもっとお客さんが「あんたんとこの寿司、普通だね」という客がもっといて、その積み重ねがあって源太が「俺の寿司、どうやって繁盛するのかなあ?」と悩むことが前提です。


それを積み重ねた上でことはが「カレー美味しい」と言って思わぬヒットを叩き出してしまうからこそ面白いのであって、そういう積み重ねもなしにやっているものだから唐突な印象は拭えません
それから上記したようにことはがカレー好きというのもキレンジャーのオマージュないしパロディのつもりかも知れませんが、問題はそれでことはのキャラが面白くなるわけじゃないことです。
源太とことはは割と普段から近しいので(大体源太と千明とことはの組み合わせが多い)違和感はないのですが、この2人ならではの良さというものが感じられませんでした。
だから、結果として源太がカレーか寿司屋かという葛藤自体に説得力が生まれず、初めから答えが出ているようなナンセンスな問いと答えを見せているだけとなってしまいます。


やっぱり大和屋脚本って作品によって相性の良し悪しがあって、「ボウケンジャー」「トッキュウジャー」では面白い回もあったのですが、本作はどうも相性が悪い模様。
ベースがシリアスかつ特殊な時代劇設定だからというのはありますが、それを差し引いてもだいぶ酷い出来で、それこそインスタントのレトルトカレー未満のクオリティ
こんなつまらない回を00年代にもなってやっているから戦隊シリーズが「ジャリ番」「子供騙し」とかバカにされるんですよ。
評価は当然F(駄作)、3クール目の終わりがこんなしょうもない話というのはどうなのでしょうか?

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

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