戦隊レッド列伝

 

スーパー戦隊シリーズにおいて、戦隊レッドは作品の「顔」であり、言うなれば「主人公」という立ち位置のキャラクターです。 集団ヒーローなので、もちろんレッド以外のキャラクターも主人公といえば主人公ですが、その中でもレッドは作品の中心に来ます。 歴代で唯一変わったことがない色でもあり、「ゴレンジャー」から時代に応じて様々なタイプの戦隊レッドが作られてきました。 ここでは個人的に作品を見ながら感じた戦隊レッドを、見た印象や感想をベースにパラメータで分析してみます。 基本的な考え方や評価基準は以下の通りです。

 

<評価基準>

 

各パラメータは戦闘力、技巧、知性、精神力、統率力、そして人間力の合計6つを元に5点満点で判断します。

 

 

このパラメータは決してシリーズを跨ぐものではなく、作品内での描写に基づく相対的なものとご理解ください。 その上でランクをS、A、B、C、Dの5段階判定し、総合的なキャラクター考を最後に述べる形式です。

 

 

レッドホーク/天堂竜(『鳥人戦隊ジェットマン』)

ギンガレッド/リョウマ(『星獣戦隊ギンガマン』)

シンケンレッド/志葉丈瑠(『侍戦隊シンケンジャー』)

シンケンレッド/志葉薫(『侍戦隊シンケンジャー』)

 


レッドホーク/天堂竜(『鳥人戦隊ジェットマン』)

 

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<パラメータ分析>
戦闘力:5
技巧:5
知性:4
精神力:1
統率力:3
人間力:2
数値合計:20/30
分析結果:A(かなり強い、他のメンバーよりも一歩抜きん出ている)


<キャラクター考>

 

「リエ……リエを、リエを探しにいかなければ!行かせて下さい、リエを探しに行かせてください!」


敵襲によって自分の命よりも大事な人の喪失を経験したレッドは数多くいるが、こんな風に生の感情を包み隠さず露呈させたレッドは後にも先にも天堂竜だけであろう。
無理もあるまい、竜とリエは公私共に最高のパートナーであり、冒頭の5分でも最高の恋人兼パートナーで、2人揃って正規のジェットマンになり得たかもしれないのだから。
次元船団バイラムの襲来は予想よりも早く、彼は予想だにしない形で「最も大切な人の喪失」を1話にして経験し、そこから復讐という狂気に囚われることになる。
しかし、ここからのリアクションが大きな違いであり、彼はそれをヒーローとしての正義感に昇華するのではなく、むしろ引きずりながらこんなことを言う。


「地球が危ないんだぞ!個人的感情なんて問題じゃないだろ!」


一見すれば正論に思えそうだが、それでも凱たちが納得できないのは正論が嫌いだからだけではなく、その意見が竜の本心から発されたものではないからである。
それを真っ先に見抜いていたのがブラックコンドル/結城凱であり、また香をはじめ他のメンバーもそんな竜の威圧的な物言いに納得していたわけではない。
事実、メンバーたちは事あるごとに竜の意見に反目・懐疑していたし、竜もまた部下や仲間を指導した経験がない以上真正面からぶつかっていく以外の方法を知らないのだ。
そして最も恐ろしいのはそんな竜こそが最も公私混同を起こしていて、一見メンバーに向き合っているようで常にその意識が亡き恋人・葵リエにしか向いていないことである。


劇中で度々リエとの回想が挟まれるが、単なる竜の内面を表しているだけではなく、過去の思い出に縋らないといけないほど竜が精神的に追い詰められていたのだ。
しかし他の戦隊ならいざ知らず、どこの馬の骨ともつかぬ素人の寄せ集めであるジェットマンでそのような付け焼き刃が通用するわけでもなく、後半でどんどん彼は弱さを露呈させていく。
22話ではメンバーたちに気遣いをした結果火に油を注ぐ結果となったわけだし、31・32話では恋人の葵リエがマリアだったという現実を受け入れられず精神崩壊しかけたのがその証拠だ。
そんな彼の姿はメンバーたちを呆れさせながらも、同時に完璧超人と思われていた竜も結局は1人の人間であると知ったことで親近感が湧き、かえって距離が近づいたと言える。


だが、問題はそれで終わりではなく、むしろ竜の戦う理由が「マリア=葵リエの救済」であると明確に自覚した後半が重要であり、彼はとうとう49話で葵リエ=マリアを人間に戻すことに成功した。
これでリエがジェットマンの一員に戻れば丸く収まったのであろうが、リエは洗脳されていたとはいえマリアとして実に多くの罪なき命を奪ってしまい多くの人の返り血を浴びてきたという罪悪感に苛まれている。
だからこそリエはラディゲに一太刀浴びせる代わりに死ぬという選択肢を取るのだが、それは竜自身が望んだ結果ではなく、しかもリエは残酷にも「忘れろ」と要求してくるのだ。
リエの死を看取ることもできなかった彼はついに50話で復讐鬼としての一線を越え、ファイヤーバズーカを復讐の道具として私物化してまでラディゲと心中しようとしていた。


結果として、竜の目論見は失敗に終わり、精神的な拠り所すら失ってしまった彼は身動きが取れなくなってしまうのだが、その中でずっと彼を見続けていた鹿鳴館香によって救われる。
葵リエの代弁者となる形で成長・変化を遂げた香の思わぬ横槍に竜は面食らってしまい、恐らくはここで初めて香を「メンバーの一員」ではなく「個人=女性」として認識したのであろう。
彼女の成長に驚きながらも初めて異性として認識した彼はようやくリエの喪失を乗り越え、「大丈夫か?香」という台詞と共にやっとそこで真のレッドホークとなったのだ。
そんな彼が最後のラディゲとの戦いで、もう1つの大切なものである親友・結城凱に対して自身の拠って立つところを明確に宣言した。


「やるんだ凱!全人類の、いや、俺たちの未来がかかっているんだ!」


1年間のバイラムとの命懸けの戦いの果てに苦悩・葛藤を繰り返しながら竜が辿り着いて見せた境地を表したのがこのセリフであり、明確に戦隊シリーズの歴史の流れを変えた瞬間である。
「大義の為に己を押し殺す=自己犠牲」でも「個人的な欲望のために周囲を顧みない=復讐」でもない、「自分たちの未来を生きる」という新しい戦いの動機を彼は示してみせた。
この一言で「ファイブマン」以前の旧来ヒーロー像は通用しなくなり、「使命のために命を懸ける」ことを前提にしつつも「死んでも構わない」のではなく「未来を生きる」ために戦うのだと彼は宣言する。
つまりは「自己犠牲」と「復讐」という、それまでの戦隊ヒーローが多かれ少なかれ前提条件として持っていた要素に懐疑を示し、それに依存せずともヒーローは戦えると断言したのだ。


しかし、竜の存在はそれまでの戦隊レッドのあり方に「懐疑」を示すことはできたが「否定」することはできておらず、実際「リエの喪失」という壁を自力で乗り越えることはできなかった
それがステータスにも数字となって反映されており、竜は戦闘力・技巧・知性において高い数字を記録する強いヒーロー性を持ちながらも、精神力・統率力・人間力といった部分が弱い。
これはヒーロー性と人間性が必ずしも一致するわけではない本作独自の構造を裏付けてもいて、その上で仲間達との関係性を通して「ヒーローと人間」について1年をかけて問い直した本作の特徴をよく表している。
それでは竜が超えられなかったこの壁をどうすれば超えることができるのか?その問いに対する答えは本作より7年後の戦隊レッドが示してくれたのだ。

 


ギンガレッド/リョウマ(『星獣戦隊ギンガマン』)

 

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<パラメータ分析>


<キャラクター考>


「やっぱり兄さんのアースは凄い!星獣剣の戦士に選ばれるのも当然だな、俺なんかとは出来が違うよ!」


こんな自己肯定感の低い台詞を爽やかに言っていたリョウマは最初の段階だとどこか頼りなさそうに見えたが、そんな彼が兄ヒュウガを喪失しアースを覚醒させるところから物語はスタートする。
歴代戦隊の中でも気弱で温厚な青年が本気で怒った時に本領を発揮するという少年漫画のような展開はあるが、それを物語の導入として持ってきたのは本作が初めてではないだろうか。
兄ヒュウガをも遥かに凌ぐ強力な「炎のたてがみ」でヤートットを焼き尽くし、「倒す!」という彼らの強い思いに呼応して飛んでくるギンガブレス…歴代の中でも空前絶後の戦士誕生の瞬間だった。
その後リョウマは覚醒直後とはいえ炎のアースと星獣剣一本でバルバンの幹部連中を圧倒し、続く第二章ではバルバンの魔人コルシザーを単独で撃破してしまう圧倒的な戦闘力を持っている。
決して戦士としての資質が低いわけではなくむしろとても高いのだが、それでも兄ヒュウガに比べて技巧や知性・精神面などで初期は甘さが目立ったことも確かだ。


そんなリョウマは統率力はそこそこであるが、その代わりに人間力が非常に高く、周囲への気配りと笑顔を絶やさないし、勇太に対しても常に優しい理想のお兄さんだった。
戦士として未熟さや甘さを抱えつつも、5人の中で戦闘力は最強であり剣術もアースも兄ヒュウガとほぼ互角、ハヤテたちもそんなリョウマがギンガレッドであることを疑ったことはない。
ではそんな彼が最初から完璧なギンガレッドに見えたかというと話は違い、彼がギンガレッドになったのはあくまで兄ヒュウガの代理人としてなったに過ぎない。
星獣剣の戦士になるには過酷な選抜競争を潜り抜けねばならず、リョウマは最終段階でヒュウガとの比較で落選してしまったことが第一章から示されていた。


星獣剣の戦士に任命されることはそれだけで誉高いことであり、「ギンガマン!それは勇気あるもののみに許された、名誉ある銀河戦士の称号である!」とはそういう意味である。
ギンガマンは確かに代々受け継がれていく形式だが、いわゆる世襲制でも偶然に選ばれるのでもなく、実力第一で選抜されるために幼少の頃から星を守る戦士としての自意識を高く持って準備してきた。
それが本作のヒーロー像の根本にあり、世俗から隔絶してギンガの森という異世界で3,000年もの間熟成させてきた使命感や戦闘技術、戦闘知能は歴代でもトップクラスに高い。
ただし、3,000年もの間実戦経験をしていなかったこともあり、バルバンの想定外の襲撃に後手に回ることもあり、総合戦闘力は初代の頃に比べて衰えているとゼイハブからは言われていた。
だから兄も故郷も失いシルバースター乗馬倶楽部という住処と青山親子、そして星獣たちしか頼れるものがいない中で、凶悪な宇宙海賊バルバンと戦う使命を背負ったリョウマのプレッシャーは相当なものだっただろう。


そんなリョウマだが、兄譲りの戦士としての自負心は高く、第六章で星獣たちが一度仮死状態に陥ったとしても、決して諦めることなく前向きに挑み、第七章では勇太を相手に宣言した。


「そうさ、俺たちは死ぬわけにはいかないんだ。必ず生きて、星獣たちと一緒に新しい力を手に入れてみせる!」


この言葉がリョウマというキャラクターおよびギンガマンのヒーロー像の根源を示したものであり、リョウマたちの戦いは「自己犠牲」ではなく「未来を生きる」ための戦いである。
だから、バルバンとの厳しい戦いの中で、辛く苦しい時や選択の葛藤に迫られる瞬間がありつつも、リョウマたちは屈託無く爽やかに苦難と悲しみを受け入れて戦い続けるのだ。
このスレたところがない純朴な正義感の強さこそがギンガマンのギンガマンたる所以であり、そういう銀河戦士の象徴としてリョウマというキャラクターは存在する。
だからそんな彼が唯一の弱点とも言えたのが兄・ヒュウガへの思いであり、モークも指摘していたように兄へのコンプレックスが弱点となっていた。
そしてそんな彼の甘さを第二十一章では復讐鬼である黒騎士ブルブラックから突きつけられるのだが、リョウマは転生を解かれ厳しい状況ながらもこう言い放つ。


「でも俺は今までそうやって戦ってきたんだ!そのせいで弱いなら、弱くったっていい!その代わり俺は、何度でも立ち上がる!守りたいものがある限り!何もかも犠牲にして勝ったとしても、その後に何があるんだ?あなたの戦い方では、終わった後に何も残らない!」


ここではっきりとリョウマは自己犠牲の戦い、すなわちバルバンに勝つためなら人間性も何もかもを押し殺した黒騎士の戦い方を否定した。
そして、その後ギンガの光での試練、二十五章でヒュウガを救うか星を守るかという公と私の葛藤を潜り抜け、戦士として大きく成長していく。
だからこそ、改めてヒュウガが帰ってきて、戦士としてのヒュウガは依然としてヒュウガが上でもリョウマははっきりと宣言した。


「俺、戦っていけると思うんだ!星獣剣の戦士として、バルバンを倒したいんだ!」


最初は義務的な側面もあり、心の何処かで兄へのコンプレックスを抱え続けていたリョウマはいつの間にか星獣剣の戦士の資格に誇りを持つようになる
そしてそれは同時に兄ヒュウガを超えたいという憧れゆえのコンプレックスの奥底にあった思いに違いはなく、ここからリョウマたちの本当の戦いが始まった。
だが、そんなリョウマはまたもや三十八章にしてヒュウガがアースを捨てたことで兄弟の絆を引き裂かれ、またもや運命に翻弄されることになる。
終盤になると戦いも激化していき、リョウマたちの顔つきも険しくなるが、そんな中でもリョウマたちから星を守る戦士としての心構えが失われたわけではない。


そして最終章、1年間かけて「星を守る」という公も、そして「故郷を取り戻す」という「私」も全てを大事にして戦ってきリョウマは自らの答えを示した。
それは自己犠牲の戦いという本作が目指すヒーロー像の本質から外れたことをしてしまったヒュウガを説得して引きずり戻し、アースを復活させることである。
第一章の伏線回収であると同時に、クランツがブルブラックを説得した第二十五章の伏線回収でもあり、ここでリョウマの兄超えの物語は完結した。
それは同時に長年戦隊シリーズの呪縛になっていた「自己犠牲」と「復讐」を真っ向から否定した瞬間でもあり、戦隊シリーズのヒーロー像が大きく変わった瞬間でもある。


『鳥人戦隊ジェットマン』で示された自己犠牲と復讐を前提とした戦いへのアンチテーゼ、そしてそこから「どんなヒーローが求められるのか?」がレッドホーク/天堂竜を通して示された。
だがそんな彼も一番大切な人である葵リエを救うことはできず、自己犠牲と復讐を真正面から否定できなかったため、それこそが後発作品に残された課題だったのだ。
そしてその答えを7年越しにリョウマとヒュウガという炎の兄弟を中心に展開することで提示したのが本作であり、それは同時に旧世代のレッドから新世代のレッドへという世代交代をも意味する。
あまりにも理想主義に過ぎるが、脚本でしっかりそのドラマに説得力を持たせて見事な大団円へ持っていった、ある意味最も主人公らしいレッドと言えるのではないだろうか。

 


シンケンレッド/志葉丈瑠(『侍戦隊シンケンジャー』)

 

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<パラメータ分析>


<キャラクター考>


「最初に言っておくぞ。この先へ進めば、後戻りする道はない。外道衆を倒すか、負けて死ぬかだ!」


シンケンジャー招集に際して、このような脅し文句に近い警告をした戦隊レッドなどかつていなかったのではないだろうか。
もちろん丈瑠も本心でこのようなことを言ったわけではないのだが、外道衆との戦いの過酷さを最前線で知っている丈瑠とそうでない家臣たちの感覚の違いを視聴者に知らしめるものであった。
そして第二幕では実際に傷つき弱ったことはを「放っておけ。この程度で潰れるような奴はいらない」「一生懸命だけじゃ人は救えない!」とも言い、あえて家臣たちを厳しく突き放す。
そんな丈瑠の偽悪的とも取れる態度は長らく直情径行型の、ある種お気楽とも取れる戦隊レッドが続いた中で異彩を放ち、ある意味では70・80年代の完璧超人型に返り咲きしたようでもある。


しかし、それはあくまでも「戦士」、本作でいえば「」として見ればの話であって、「人間」として見た場合は話が異なり、最初は家臣たちから気難しく近寄りがたい人だと思われていた。
話が進むにつれて、丈瑠が実は泣き虫であった過去を知る幼馴染の源太という存在が出たり、先代シンケンレッドの死亡シーンと父親のシーンが違う人だったりすることで丈瑠が胡散臭い存在となる。
殿様なのにどこか殿様らしくなく、それどころか当の丈瑠自身が自分の存在意義に自信が持てず、どこか揺れている節があったのは決して彼が影武者だったからというだけではない。
幼少の頃に先代シンケンレッドの死という強烈なトラウマを見せつけられ、「忘れるな!今日からお前がシンケンレッドだ!」と火傷のような遺言を聞かされれば丈瑠の奥底に消えない心の傷として残る。
そしてまた、自分自身がシンケンレッドとして戦うことを前向きに考えられないまま、なし崩し的に見ず知らずの家臣たちと戦うことになったという複雑な事情が折り重なっているのだ。


年間を通して丈瑠自身に漂う孤独の影や憂いを帯びた顔つきは他の戦隊と比べても類を見ないものであるが、見逃せないのは家臣たちとの絆が強まるほど丈瑠の孤独が強まることである。
上記したようにシンケンジャーとしての戦いは志葉家の世襲であり、そこに個人の意思が介在する余地はなく、本人がそれを望もうと望むまいと一度決まったことは家系のしきたりで覆せないのだ。
だからこそ、シンケンジャーにとっては外道衆と戦うことよりも殿と家臣の主従関係が崩れてしまうことの方が遥かに怖く、だからこそ終盤でのお家騒動は本作のクライマックスにはもってこいであった。
実際、丈瑠が殿様ではなくなり当主が入れ替わったという衝撃の事実を前に家臣たち4人は無力であり、また志葉家を追い出された丈瑠を源太の友情なんて甘いものでは救えなかったのである。


つまるところ丈瑠がシンケンレッドとして戦ったのは彦馬爺や家臣たちから殿としての役割を求められたからであって、それはとりもなおさず激務の大企業で働かされる組織経営者代理と何ら変わらない。
そんな丈瑠が急に梯子を外されて「殿ではない自分」となり家臣との絆や彦馬爺との関係性まで全てを喪失した時、「ビックリするほど何もない」と燃え尽き症候群になったのも当然のことと言える。
シンケンジャーとしての戦いに丈瑠個人の思いなどはどうでも良く、外道衆に打ち勝つことができればそれでいいのだから、考えるとそもそも志葉家のシステムに問題があったとしか思えない。
だが、丈瑠個人の力ではその見えない組織からの圧力に反発することもできず、全てを失って剣術の腕前だけが残った彼に十臓がやってきて、そっちの戦いに没頭したのは当然のことと言える。


「志波家当主じゃなくて、ただの侍としての俺が戦いたいと思っている」
「何もないよりはマシか…」


それまでずっと志葉家当主という望まぬ重荷を背負って戦い続けてきた丈瑠にとって、そういう役割や絆を気にせず十臓と純粋な斬り合いに臨めることがどれだけ嬉しかったことか筆舌に尽くし難い。
だが、丈瑠はそれで充足感を覚えたとしても、十臓はまるでドラッグの快楽に溺れた廃人のように更なる斬り合いを求めて丈瑠に執着し、丈瑠もそんな十臓の深淵に引きずり込まれそうになる。
何とか家臣たち4人が救ってくれたからよかったものの、皮肉なことにそれまで丈瑠を苦しめてきた元凶である家臣との絆が最後に丈瑠の救済措置として機能することになったのだ。
とはいえ、それでも丈瑠が志葉家当主でないという事実に変わりはなく、根本的な問題は何も解決されていないため、丈瑠の苦難はまだ終わりを告げたわけではない。


丈瑠が本当の意味でカタルシスを得ることができたのはそんな丈瑠と家臣たちの絆を知った薫姫が丈瑠を養子縁組に迎え入れ、志葉家十九代目当主に任命された時である。
しかし、これとて丈瑠が決めたことではなく薫姫の権限がなければ不可能だったことであり、最後のドウコクとの決戦も母上が作ったディスクと指示、そして丹波のサポー無くしては勝てなかった。
全ての戦いを終えた時、丈瑠は初めて晴れやかな笑顔を見せるが、しかし志葉家十九代目当主への就任すら丈瑠の意思で決めたものではない以上本心からの笑みかは判断できない
家臣たちと別れて平和な日々が訪れたとはいえ、丈瑠が志葉家の業から逃れられたわけではなく、あの結末を素直に大団円として喜んでいいものだろうか?
この圧倒的ヒーロー性とは非対称的な人間力の低さ、これが志葉丈瑠というレッドの特徴にして本作のヒーロー像がどういうものであるかを示しているといえるだろう。

 


シンケンレッド/志葉薫(『侍戦隊シンケンジャー』)

 

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<パラメータ分析>


<キャラクター考>


「頭が高い!一同控えろ!!」


まさか時代劇『水戸黄門』で使われていた言葉をスーパー戦隊シリーズで聞く日が来ようなどとは誰が想像しえただろうか?しかもその言葉を発しているのは歴代初の女性レッドである。
同じようなことは彼女のお目付役である丹波も家臣たちを前に言ったのだが、丹波が言うのと薫姫が言うのでは全く発言の重みが違う、正に鶴の一声である。
見かけは小柄な中学生でありながら、中身はとてもそうは思えないほどに豪胆で男前、時代錯誤なところはあれど決して人心を理解できない愚かな上司ではない。
ただし、彼女もやはり丈瑠同様に小さな頃から志葉家の運命に縛られ、女性としての楽しみも人間性も全てを押し殺して封印の文字習得や剣術、モヂカラの訓練に日々を費やしてきた。


彼女が現れたのは劇中終盤だけだが、そのたった5話でも非常に様々な側面が描かれ、侍としての側面から上司としてのできの良さまで含めて完全な丈瑠の上位互換である。
志葉家の嫡子だけあってモヂカラも丈瑠より遥かに強く、体格では丈瑠に劣っても技巧に優れ、丈瑠たちが5人掛かりで苦戦した相手すらも簡単に倒すことができた。
そんな彼女の存在感はかえって家臣たちにとっては「出来すぎて嫌な奴」のように映ってしまい、しかし決して「嫌なやつ」ではないから憎むこともできないのだ。
かといって、彼女が台頭してきたことで志葉家を追い出された丈瑠を放置しておくこともできず、家臣たちは薫姫と丈瑠のどちらを取るかという選択に迫られる。
彼女はそんな家臣たちの胸中を理解することができず、それに気づいたのは四十七幕で迷って動けなかった流ノ介に黒子が言った次のセリフだった。


「勿論、姫は守らなければならない、当然だ。が、人は犬じゃない。主は自分で決められる」


この言葉を裏でひっそりと聞いてしまった薫姫はここで初めて自分が起こした行動によって怒った混乱の意味を理解し、後ろめたい顔つきを見せる
志葉家十八代目当主としての宿命を優先したことと引き換えに丈瑠を、そして家臣たちを縛り付け追い詰めてしまったこと、それを理解できていなかったこと。
家臣たちの心が丈瑠に向かっている中で、彼女もまた自分がしてきたことの過ちに苛まれるが、そんな彼女の存在を救ってくれたのは源太である。
寿司屋でよければ、お供するぜ」と侍ではなく丈瑠の幼馴染だった彼が寄り添ってくれたことが彼女にとってどれほど大きな心の支えとなったことだろう。
そんな彼女も四十八幕で初めて影武者であった丈瑠と一対一で話すことになった時、初めてそれまで誰にも明かしたことがない胸中を口にする。


「でも、会わなくても1つだけわかっていた。きっと、私と同じように独りぼっちだろうと…幾ら丹波や日下部がいてくれてもな。自分を偽れば、人は独りになるしかない」


ここで初めて薫姫もまた決して自分の意思で戦っていたのではなく、女性としての楽しみや本心を押し殺して戦ってきたという背景が見えてくる。
皮肉なことに孤独になるしかない宿命を抱えていたのは丈瑠だけではなく、姫もまた同じであり、ようやくここで2人は通じ合うことができたのだ。
封印の文字を習得したにもかかわらず失敗した以上、彼女の役割はもはや前線で戦う侍としてではなく司令官としての役目しか残されていない。
そこで丈瑠と家臣たちとの絆を大嘘から真実に塗り替えるために、彼女が取ったのは次の選択だった。


「私の養子にした」


志葉家当主の権限をもって、薫姫は丈瑠を志葉家十九代目当主へ正式に任命することで、晴れて丈瑠と家臣たちは本物の殿と家臣になったというわけだ。
しかし、どうしても問題は残ってしまう…それは望まぬ戦いを強いられてきた丈瑠を再び志葉家の業に引きずり戻して戦いに縛り付けることである。
そもそも自分の意思で選んだわけではないこの戦いを丈瑠が自分で意思したものなのかどうか、それを確かめる術は丈瑠にも薫姫にもなかった。
それでもドウコクが封印できない以上倒すしかこの世を守る方法はなく、だからこそ養子縁組を組むという志葉家のシステムを利用した裏技に頼ることになる。


最後の戦いでも彼女はできる限りのアシストをし、見事ドウコクを倒すことはできたものの、彼女もまた世の表舞台からは姿を再び消すこととなった。
正に彼女こそが本作における真打ちだとも言えるが、丈瑠と表裏一体の薫姫の存在もまた本作がどのようなヒーロー像を提示しているかを視聴者に示しているといえよう。
ちなみに視聴者の間には彼女と丈瑠が結婚するのではないかとの噂も流れたらしいが、これだけシビアな現実を描いて最後に結婚となるとそれは「愛」で逃げたこととなる
それに、あくまでも丈瑠と薫姫は孤独な運命を抱えた似た者同士であって、決して男女の情愛などないのだから、結婚したところでその孤独を減じるものにはならない。
だからこそ、丈瑠自身の意思かどうかという確認はできなかったものの、彼を志葉家当主として養子縁組を組んだのは作品として合理的な答えだったと言える。

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