『光戦隊マスクマン』(1987)総合評価

導入文

(1)「ジャッカー」終盤以来のラブロマンス

(2)神秘の力・オーラパワーとF1レースの結びつきのなさ

(3)歴代初の5体合体ロボと番外戦士

(4)納得いかない終盤の流れ

(5)まとめ

 


導入文

スーパー戦隊シリーズ第11作目『光戦隊マスクマン』は前作「フラッシュマン」が提唱した要素を形を変えて継承していきました。
その継承した要素は具体的に2つあって、1つが外的(=公的)動機と内的(=私的)動機のパラダイムシフト、そしてもう1つが歴代初の2号ロボといった要素です。
更に、本作独自の要素として挙げられるのが神秘の力・オーラパワーと歴代初の番外戦士、そしてレッドと敵組織の女幹部とのラブロマンスが織り込まれています。
前作「フラッシュマン」が戦隊版「ボルテスV」だとするなら、さしずめ本作は戦隊版「闘将ダイモス」でしょうか。


そんな本作ですが、結論から言えばその試みが結実したとは言い難く、どうしても諸要素がうまくいかず最終的に噛み合わずに終わってしまいます。
前作で打ち出した作品としての欠点が克服しきれないまま、結局ゴールを見据えずに作られてしまったからなのです。
これが「ボルテスV」「ダイモス」と「フラッシュマン」「マスクマン」との決定的な差だったのではないでしょうか。
作り手の中に明確なゴールが想定されていない作品はうまくいかず、当時の曽田博久先生をはじめとする作り手にはそれができなかったのです。
ということで、本作も前作「フラッシュマン」に続き、一体どこが良くなかったのかを検証していく反省会・フィードバックを行いましょう。


(1)「ジャッカー」終盤以来のラブロマンス


本作最大の特徴は「ジャッカー」終盤以来のラブロマンスが描かれたことであり、しかもそれが年間を通す縦糸になっています。
具体的にはレッドマスク・タケルと敵である地底帝国チューブのイアル姫とのラブロマンスであり、さながらそれは竜崎一矢とエリカを見ているようです。
戦隊レッドのイメージも本作で大きく変わり、いわゆる完璧超人型のリーダータイプからやや隙のある等身大の青年へと変貌を遂げつつあります。
本作のタケルは後の「ジェットマン」の天堂竜のプロトタイプと言えるキャラであり、恋愛になると周りが見えなくなる男なのです。


しかも「ジャッカー」の終盤と違って本作は第1話の段階で2人の出会いと別れが示されているために、きちんと年間を通して描こうと設定されています。
また人造人間ではなく、あくまでもオーラパワーの素質を見込まれてマスクマンにスカウトされたに過ぎない若者なので、恋愛してもなんら文句はありません。
ただ、この設定がタケルをうまく掘り下げる有効な設定として機能していたかというととてもそうは言えず、変身後のレッドマスクのキャラと繋がらないのです。


本作においては外的(=公的)動機が「チューブから地球を守ること」、内的(=私的)動機が「イアル姫と結ばれること」なのですが、この2つの動機が空中分解したままでした。
つまり変身後のレッドマスクが変身前のタケルのキャラとは別に敵を倒すだけの戦闘マシンのようになってしまうので、どうにもその辺りのバランスがうまく取れません。
また、その敵の女幹部とのラブロマンスが敵側の方にも大きな影響を与えるわけでもなく、結局のところ悪い意味でいつもの80年代戦隊の文法・お約束から逃れられないのです。
そしてまた、レッド以外の人たちが外的(=公的)動機こそ持ち合わせているものの内的(=私的)動機を持ち合わせていないので、個性が薄いままでした。


このように、本作ではタケルとイアル姫の縦糸の恋愛要素を仕込んだはいいものの、それが年間のテーマを形成するほどには至らなかったのです。


(2)神秘の力・オーラパワーとF1レースの結びつきのなさ


2つ目に、神秘の力・オーラパワーとF1レースという力の源が全く結びつかないことも大きな欠点として挙げられるのではないでしょうか。
オーラパワーとはいわゆる「気の力」であり、のちに「ダイレンジャー」の気力とか「ドラゴンボール」の超サイヤ人とか「Gガンダム」の明鏡止水とかいう形で洗練されていく要素です。
そのため拳法的要素を取り入れたという点では大きいのですが、それが当時の流行にして変身後のメカニックのモチーフであるF1レースとの結びつきが弱いままでした。
しかも面倒臭いことに、変身する為にはいちいちメディテーションをして精神統一を行わなければならないので、これがとても厄介な設定だったりします。


しかし、このオーラパワーや拳法とF1レースという変身後のメカニックの結びつきのなさは本作に限ったことではなく、「チェンジマン」までの80年代戦隊が持っていた構造的な弱点です。
それこそ「チェンジマン」なんて変身後のミリタリー要素と神秘の力・アースフォース、そして幻獣モチーフに関連性はなく、よくよく分解すると整合性が取れているようで取れていません。
ただ、「チェンジマン」の場合はその弱点すら補えるほどの強固なキャラクターの個性とドラマ性の高さ、敵側のゴズマの脅威などによって整合性のなさをカバーできていました。
そして後半ではそのアースフォースをチェンジマンが己の内側に取り込むエピソードがあることで更なる強さを手にすることができるようになったのです。


そういった別々の力をハイブリッドに取り込んで組み合わせていくエピソードが本作ではないので、どうにもこの分断したままの力というのが私としてはスッキリしないままでした。
また、本作は変身前の拳法アクションが変身後のアクションよりも多めに描かれているせいで変身後よりも変身前の方が強く見えてしまうという本末転倒な結果となったのです。
そうしたビジュアル面の変化や整合性の弱さもまた(1)と関連する本作のキャラクターの弱さにつながっているのではないでしょうか。


(3)歴代初の5体合体ロボと番外戦士


そんな本作ですが、一応前作から継承した要素だけではなく、新規で出てきた要素もあります。それが歴代初の5体合体ロボと番外戦士の登場であり、これに関しては唯一の成功要素と言えるでしょう。
まず前者ですが、今でこそスーパー戦隊シリーズは5体合体ロボというのが当たり前になっていますが、実はそれが出てきたのが11作目というのを知ると意外に遅かったことに驚きます。
70年代には既に「コン・バトラーV」「ボルテスV」あたりで実現していたことだったので、スーパー戦隊シリーズでそれに追いつくのが10年以上というゆったり具合が実にスーパー戦隊だなと。
グレートファイブは劇中の活躍こそまあそこそこという感じですが、デザインそのものはかっこよかったですし、また2号ロボのギャラクシーロボとの区別もできていてよかったです。

ただ、そのギャラクシーロボなんですが、やはり前作のタイタンボーイ同様「動く箱」のような微妙なデザインなのでかっこ悪く、しかも最初はとても動かしにくいというピーキー具合でした。
2つのメカが同時に並んでも映えるわけでもなく、アクションで差別化はされていたものの、もう少し使い分ける基準などは正確に設けて欲しかったところですね。
しかもグレートファイブとの使い分けもなされていなかったので、どうにもこの辺りは次作「ライブマン」以降へ持ち越すことになった本作の反省点でしょう。


そして、本作でもう1つ特筆すべきは1話限定で登場したX-1マスクであり、この回は井上敏樹先生が手がけたエピソードで、いまでもファンの間で語り草になっています。
スーツデザインはぶっちゃけダサいものの、マスクマン以外に戦士になって戦う者が出てくるのは次作「ライブマン」にも継承されていますし、「ジェットマン」以降にも繋がって行く要素です。
あの話は本作の数少ない美点の1つであり、試しでやったことが意外にもうまくいったのは大きかったのではないでしょうか。


(4)納得いかない終盤の流れ


さて、そんな本作ですが、やはり前作の反フラッシュ現象同様に終盤のまとめ方には失敗してしまっており、最後の最後でバラバラの複雑骨折を起こしてしまいました。
まず、イガムとイアルが実は姉妹だったという設定自体もかなり唐突な後付け設定ですし、それぞれの結末がどうにもとってつけたよなもので納得できません。
イガムの唐突な改心からのラストは出家して尼に…というのもよく分かりませんし、そもそもそんな結末を描くなら最初からきちんと伏線張って欲しかったです。


それから最も納得いかないのがタケルとイアル姫の恋愛が結局のところ一矢とエリカのように結ばれる形で終わらず、別れることになってしまいました。
これは離別することに問題があるのではなく、その2人を阻む要素が何もないのになぜ別れなければならないのかが納得いかないのです。
あれでしょうか?当時のスーパー戦隊シリーズではヒーローがヒロインと結ばれてはならないというタブーでも存在していたのでしょうか?
それともその「ダイモス」と同じような結末を迎えるわけにはいかないと差別化を図ろうしてこうなってしまったのか…いずれにせよ、全く納得できません


まあ確かにタケルとイアル姫の恋愛に関してはうまく描けていたとは言えないので、それで結ばれてラストでイチャイチャされても微妙だったでしょう。
でもたかが物理的な距離ができるなのになぜ別れる必要があるのかがわかりません。一緒に生活するという形でもいいわけじゃないですか。
しかももう1人第三勢力として絡んできてたキロスに至っては自分の剣が腹に突き刺さって死亡というギャグアニメみたいな死に様ですしね。
こうした諸要素のまとめ方が下手くそなために、部分部分で見れば悪くない本作も終盤で物の見事台無しにしてくれたなあという後味悪い結末になってしまいました。


(5)まとめ


シリーズ11作目の本作は前作「フラッシュマン」からさらなるチャレンジと差別化を図ろうとして、結果的には大失敗に終わってしまった中途半端な作品となりました。
「チェンジマン」という集大成で1つの頂点へ登り詰めた曽田博久先生をはじめとする制作スタッフにとうとうガタがきてしまったようです。
その意味では「ゴレンジャー」に始まり5作目の「サンバルカン」で身を引いてメインライターを明け渡した上原正三氏の判断は賢明だったのかもしれません。
次作「ライブマン」を前にしてこんなことを言うのも何ですが、今思えば曽田先生は「チェンジマン」までで執筆をやめ、「フラッシュマン」でメインライターを明け渡すべきでした。
そうすればこのような醜態を晒さずに済んだのだと思うと、いろいろ悔やまれてなりません。総合評価は前作同様E(不作)というところでしょう。
しかし、いよいよ次作「ライブマン」で曽田先生は最後の輝きを見せることになります。

 

 

光戦隊マスクマン

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

A

メカニック

E

演出

D

音楽

C

総合評価

E

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

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