『超獣戦隊ライブマン』(1988)総合評価

導入文

(1)学生運動の再現

(2)外的(=公的)動機と内的(=私的)動機のバランス

(3)追加戦士2名&スーパー合体

(4)アクション面はやや不満

(5)「ライブマン」の好きな回TOP5

(6)まとめ

 


導入文

スーパー戦隊シリーズ第12作目『超獣戦隊ライブマン』は前作「マスクマン」まででかなり限界を迎えていた曽田先生がメインライターとして最後の輝きを放った一作です。
新機軸を模索した前2作の反省点を教訓化し、ついに曽田先生が語りうる最後のテーマを全面に押し出すことで全ての力を出し切ったように思えます。
その最後のテーマとは何かというと「バイオマン」までのテーマになっていた「正しい科学VS間違った科学」であり、本作はそれを年間の本テーマに昇華させているのです。
そして、先生自身の中にあったもう1つのバックボーンがあり、それが「学生運動の活動家だった」という過去であり、それを時代に合わせて千円した形で再現しています。


本作は「サンバルカン」以来の3人戦隊ですが、「サンバルカン」と大きく違っているのは役者たちがそれぞれに突出した個性の持ち主であるということです。
主題歌も歌っており、今や見る影も無いほど太ってしまったもののカッコよかった嶋大輔、アクションから演技まで幅広くこなせる天才役者の森恵、そして現在も第一線で活躍する西村和彦。
既に業界の雰囲気に慣れていた一流のタレントが揃ったことで5人戦隊にも負けないテンションや空気感を生み出すことができ、しかもそれぞれにしっかりとしたキャラ付けがなされています。
後半になると、追加戦士2名にスーパーロボ合体などが加わるのですが、正直5人の時よりも3人の時の方がバランスがよかったので、このまま行って欲しかったなあという気も。


そんな本作ですが、敵組織の頭脳軍ボルトはどんどん終盤に向けて矮小化して行き、「チェンジマン」とは逆に世界観が縮小化していき、より内奥に迫っていく方式になっています。
それが悪いのかというとそうではなく、よりミクロなキャラクターのドラマを掘り下げて描いていくことで「チェンジマン」と同じようなテンションを生み出しているのです。
「チェンジマン」が「」の物語だとするなら「ライブマン」は「」の物語であり、このミクロなヒーロードラマの手法は本作より3年後の「ジェットマン」で更に洗練されていきます。
そんな「チェンジマン」以来の名作となる本作が果たしてどのようにしてその魅力を形成していったのか、その魅力に迫ってみましょう。


(1)学生運動の再現


冒頭でも説明たとおり、本作を一言で表すならば「学生運動の再現」、すなわち曽田先生自身が原体験として味わった学生運動の悲惨さを80年代末期の時代性に合わせて洗練させた形での疑似的な再現です。
いわゆる「受験戦争」であるとか「ゴーグルV」から掲げていた「正しい科学VS間違った科学」とかいった表層的な要素を取っ払って分解していくと、学生運動の再現であることがわかります。
これは曽田先生自身も公言していらっしゃいましたが、学生運動の活動家だった先生は当時学友が殺されて過激化して様を見て、人間の狂気というものがいかに恐ろしいかを感じ取ったそうです。
更にずっと大人になっても失われた友への思いがあったとのことで、本作ではそれを有名な「友よ、君たちはなぜ悪魔に魂を売ったのか?」というナレーションで訴えています。


そしてアカデミアの勇介たちライブマンの3人は学生運動当時の先生たち自身、更にその勇介たちと対峙する元アカデミーの3人は学生運動で道を違えてしまった元学友たちのメタファーなのでしょう。
つまり主題歌で歌われている「青春爆発」「青春炸裂」とはいわゆる若さゆえの過ちであり、尖った危うさでとんでもない方向に突っ走ってしまう若者の怖さを歌ったものではないでしょうか。
個人的な見立てではありますが、このように見ていくと、本作の画面に全体的に漲っているギスギスした空気感や重々しい空気もそういう学生運動時代の独特の空気感であると納得できます。
ただし、これは言ってしまえば「自分語り」であり、作家がこのようなことをするということはもう後に引くことはできない最後の一作であるということですから、相当な覚悟が必要だったでしょう。


まるで空の雑巾を絞り出すように、ストーリーからキャラクターから全てにおいて余裕すらもかなぐり捨てた勇介たちとボルトたちの最後の戦いは昭和最後の戦隊に相応しい出来栄えです。
そんな学生運動の再現として作られた本作において、これまで培ってきた要素がどのように開花しているのかもまた見ていきましょう


(2)外的(=公的)動機と内的(=私的)動機のバランス


本作においては外的(=公的)動機と内的(=私的)動機のバランスがかなり大々的にわかりやすく表現されており、勇介たちは常にどちらかを犠牲にすることを迫られるのです。
「フラッシュマン」では外的(=公的)動機が「メスを倒して平和を守る」、内的(=私的)動機が「肉親との再会」であり、明らかに前者の方がウェイトの大きいものでした。
そして「マスクマン」でも外的(=公的)動機が「チューブを倒して平和を守る」、内的(=私的)動機が「タケルとイアル姫との恋愛」であり、これも前者の方がウェイトの大きいものです。
ところが本作においては外的(=公的)動機である「ボルトを倒して平和を守る」ことと内的(=私的)動機の「ケンプたち元アカデミアの学友への復讐」のウェイトが同じになりました。


そう、それまでは外的(=公的)動機>内的(=私的)動機だったのが本作では外的(=公的)動機=内的(=私的)動機という力関係になっているのです。
勇介たちは最後までケンプたちを倒そうかどうか葛藤しており、ケンプたちを倒せば外的(=公的)動機を果たせるものの、それは同時に内的(=私的)動機である復讐をも満たすことになります。
だからこそ、物語中盤の20話、21話での尾村豪の説得と救済が唯一の例外として物語の中で機能しうるわけであり、本作では勇介たちは常に二者択一を突きつけられているのです。
しかもそれに関して誰も正しさや根拠を保証してくれないために、何が間違いで何が正しいのかを自分たちで定義付けし、自分たちで判断していかなければなりません。


本作ほど挫折と苦難に満ちた作品もなかなかないでしょう。ここまでヒーロー側に逆境の多い戦隊は多くはなく、本作はそういう意味で見ているこちらも苦しくなる作品です。
ただし、ここまで命を削って向き合ったからこそ、終盤のドラマが異様な盛り上がりを見せたわけであり、しかもラストはヒロインの岬めぐみがラスボスを説得しようとします。
ボスクラスと和解した戦隊ならば他にも例がありますが、「説得」までしようとした戦隊なんて後にも先にも「ライブマン」くらいでしょうか。
まあ一応天晴が久右衛門を説得しようとした「ニンニンジャー」もあるのですが、それはまあ置いといて、それくらい本作は歴代戦隊のタブーに挑んでいます。


(3)追加戦士2名&スーパー合体


さて、本作で外せないのは後半で出てくることになる追加戦士2名と歴代初の1号ロボと2号ロボのスーパー合体ですが、これは美点でもあり欠点でもあるという複雑な感じです。
一応3人のキャラクターが完成した状態で入ってきたので3人の存在感が薄れることはないのですが、復讐という動機を抱えて鳴り物入りで入った割には2人のキャラそのものは面白くなりませんでした。
まあ一応男が妊娠してしまう回などは頭おかしい回ではあるもののギャグとしては面白いのですが、グリーンサイとブラックバイソンの個人エピソードで印象に残っているものがないのですよね。
中の人の存在感としても初期からいた勇介たちに食われてしまっている感じがあって、もう少しこの2人に関してはうまく扱って欲しかったという印象は否めません。


そして歴代初のスーパー合体であるスーパーライブロボですが、デザイン自体はカッコいいもののあまりスーパー感がないのは3体から5体になっただけにしか見えなからでしょうね。
前作「マスクマン」で歴代初のグレートファイブという5体合体ロボを見せたばかりなので、それを見ているせいでいつもの5体合体に見えてしまいあまり変わり映えしないように見えたのです。
また、そのスーパーライブロボ自体出てきて一瞬で敵をやっつけてしまうので、いわゆるデウス・エクス・マキナ的存在でもう少しスーパー合体らしい特別感やすごさを見たかったのが本音です。
デザイン自体はまるでアメフトやラグビー選手のように甲冑をまとっている感じで好きだったのですけど、見せ方としてはもうひと押し足りない感じでした。


(4)アクション面はやや不満


そんなライブマンですが、欠点というほどではないものの、変身前と変身後のアクションで印象に残る絵が今ひとつないのも「特撮」として見た場合に惜しまれるところでしょうか。
まあこれは「ジェットマン」「タイムレンジャー」あたりとも共通するドラマ性偏重の戦隊に共通することなのですが…今思い出しても、ライブマンって特徴が今ひとつなんですよね。
なんでこんなに微妙なのかというと、それぞれの動物モチーフが今ひとつ活かされていないのもありますが、そもそも第1話での見せ方が微妙だったせいなのだなと思いました。
というのも、立ち上がりの段階のライブマンって意気揚々と変身したにも関わらず、戦闘員にすらやられる描写が目立ったため、「弱い戦隊」という印象が目立つんですよね。


まあそもそも2年間しか準備期間がなく、スーツも自家製なのでそこまで高性能のものを用意できなかったからかもしれませんが、とにかく立ち上がりの段階は弱いです。
そこから終盤にかけてもアクションの面白さというよりはストーリーとキャラクターの面白さで繋いでいるので、名勝負とか印象に残ったアクションがありません。
強いて言えば勇介とコロンの絆を描いた時の剣での一騎打ちとかは印象に残っていますが、ボルトの幹部連中とのやりとりやドラマの方がやはり記憶に残っています。
もう少しアクション面をどうにかできていたら、それこそ「チェンジマン」に匹敵しうるだけの傑作となり得たでしょうに、ここで少し画竜点睛を欠いてしまった感じです。


(5)「ライブマン」の好きな回TOP5


それでは最後にライブマンの中から好きな回TOP5を選出いたします。


まず18話は「チェンジマン」に続く全盛期の藤井邦夫脚本の傑作回であり、イエローライオンのメイン回の中では一番印象に残っています。
次に35話は改めて後半に向けて描かれた勇介とケンプの因縁・約束であり、2人の関係性と同時にまるで道を違えた2人の生き様が強烈な対比となりました。
3位はラストのマゼンダと尾村のやり取りがもうあまりにも切なすぎて、思わずほろっと涙を流してしまいかねない傑作回です。
2位はライブマンの戦いの動機である「平和を守る」ことと「復讐」とのバランスがしっかり描かれ方向性を固めた序盤の名編で、今見直しても大好きな話でした。
そして堂々の第1位は前半のクライマックスにして「ライブマンとは何か?」を最も象徴している尾村の救済エピソードであり、この話だけでもライブマンの凄みが伝わってきます。


(6)まとめ


本作は「チェンジマン」で頂点に達し、「フラッシュマン」以後で見るからに凋落していった曽田脚本がギリギリのところで最後の輝きを放った一作です。
もうわずかに残っていた作家性を全放出し、これ以上はないだろうという鬱屈をすべて吐き出したことで、異様なほど濃いドラマが出来上がりました。
その反面次作「ターボレンジャー」「ファイブマン」でその反動が押し寄せてきて、すっかり出涸らしになってしまうのですが…。
そんな切なさを感じさせつつ、とにかくこれ以上はないというレベルまで出し切った昭和戦隊最後の意地と覚悟を見せつけてくれた一品です。
総合評価はA(名作)、「チェンジマン」が「」の集大成ならば本作は「」の集大成といったところでしょう。

 

 

超獣戦隊ライブマン

ストーリー

S

キャラクター

A

アクション

D

メカニック

B

演出

S

音楽

A

総合評価

A

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

inserted by FC2 system