『獣拳戦隊ゲキレンジャー』(2007)総合評価

 

導入文

(1)目指したのは戦隊版「ドラゴンボール」か?

(2)ぬるま湯の修行をしている味方とハードな修行をしている敵

(3)「みんなを守る」とは果たして誰のことを指しているのか?

(4)実質の番組名は「ふたりは臨獣拳士」

(5)まとめ

 


導入文

スーパー戦隊シリーズ第31作目『獣拳戦隊ゲキレンジャー』は前作「ボウケンジャー」から一転して中華ファンタジー路線へと舵を切りました。
「マスクマン」「ダイレンジャー」に続く拳法戦隊であり、そして最後の塚田Pシリーズ作品でもあるのですが、本作に関してはもう一切擁護できません
まさか「ジャッカー」「オーレンジャー」「アバレンジャー」と並ぶFラン戦隊の記録を軽々と更新する作品が出るなんて思いもしませんでしたよ。
私はこの年勉強が忙しくなった関係で戦隊もライダーもプリキュアも見なくなっていたのですが、ぶっちゃけ見逃して逆に良かったと思う戦隊です。


なぜだかここ数年再評価(?)のムーブメントがあるようですが、どうやら評価されているのはヒーロー側ではなく敵側のようでした。
まあ確かに敵側のキャラクターは魅力的と言えば魅力的かもしれませんが、それはあくまでもヒーロー側のキャラクターが立っていることが大前提です。
私に限らないと思いますが、あくまでもヴィランの魅力は単独で成立するものではなく、それを迎え撃つヒーローのかっこよさがあって成り立ちます。
しかし、本作はそのヒーローに全く魅力がなく、アクションもビジュアルも本当に中途半端で何を見せたかったのかが全くわかりません。


「デカレンジャー」「マジレンジャー」でサブライターとしてそこそこのいい仕事をした横手美智子氏の初メインライター作品なのですが、ものの見事に大ゴケしました
おそらく塚田Pをはじめとする当時の東映スタッフは横手氏を「第二の小林靖子」として育て上げたかったのかもしれません…それこそ「ギンガマン」「タイムレンジャー」で作家として大成した女史のように。
残念ながらそれは叶わぬ夢となり、横手氏は本作と「ゴセイジャー」での失敗によりスーパー戦隊シリーズからは降板させられてしまいますが、まあそれも内容を見れば納得です。
ということで、本作に関しては徹底した反省会・フィードバックとして書いていきますので、ファンの方にとっては非常に辛い内容になっていることと思います。


(1)目指したのは戦隊版「ドラゴンボール」か?


さて、本作のモットーは「日々の暮らしの中に修行あり」なのですが、これを聞いて私が連想したのはジャンプ漫画「ドラゴンボール」です。
というのも、野生児のジャンという設定と拳聖の緩やかなキャラクターの関係性はまさに野生児として育った孫悟空とその師匠である亀仙人を彷彿させる設定になっています。
実際「ドラゴンボール」を読んでいるとわかるかと思いますが、あれの面白いところは単なるスポ根漫画と違って「本人の適正に合う効率的な努力・修行」をさせるところです。
例えば孫悟空は修行こそ真剣に取り組みますが、一方で体の休ませ方やバランスの取り方もしっかりできていて、単なる脳筋野郎ではありません。


それこそセルゲームでは孫悟飯と共に「いつも超サイヤ人でいられるようにして100%の力をそれ以上に演出する」ということをやっていましたが、これも大元は亀仙人の修行があればこそです。
一見楽しそうにやっていながらもその実深い学びになる修行を本作ではジャンと拳聖たちの関係性を通して描き出し、序盤の猫拳聖のキャラはまんま亀仙人を置き換えたものになっています。
東映特撮で野生児というと「仮面ライダーアマゾン」を思い出しますが、ジャンの場合はアマゾンというよりも孫悟空だったのではないでしょうか、その頭の空っぽ具合なども含めて。
しかも正義の味方側であるゲキレンジャーもスポーツのメソッドを取り入れて修行していますから、まさしく戦隊版「ドラゴンボール」として描かれたのが本作であると言えます。


そうなると、本作の主人公であるはずのジャンは戦隊版の孫悟空かということにはなるのですが、ただジャンプ漫画の世界観とスーパー戦隊シリーズの世界観とは基本異なるものです。
「ドラゴンボール」がなぜあれだけはちゃめちゃしながらも面白かったのかというと、あの独特の世界観は鳥山明先生にしか創造しえないものであり、ほかの作家が真似していいものではありません。
今でこそジャンプ漫画の黄金期を支えた王道の漫画みたいに評価されていますが、「ドラゴンボール」の作風自体はとても王道からはかけ離れた異端なものとなっているのです。
だから、その後現れた多くのジャンプ漫画の作家が鳥山先生に憧れながらも「ドラゴンボール」を安易に真似しなかったのかというと、あれは真似しようとしてもできない世界観だからでしょう。


本作はその辺りのことを考えず、単純に「ドラゴンボール」の世界観や設定、作風をスーパー戦隊シリーズに落とし込めば子供人気が取れると思っていたのではないでしょうか。
しかし、これがジャンプ漫画黄金期であればともかくもうすでに時代は黄金期をとっくに過ぎ去り「ONE PIECE」「NARUTO」のような整合性がしっかりできている作品が主流でした。
そんな中で今更安易に「ドラゴンボール」の世界観やキャラ付けを真似したとしても完全に浮いてしまうことは間違いなく、作り手はその辺のズレを考えていなかったと思われます。
もっとも、あのジャンのキャラクターを違和感なく演じ切ってみせた鈴木裕樹氏の演技力は見事だなと思いますが、まず本作は設定や世界観構築の段階から失敗しているのです。


(2)ぬるま湯の修行をしている味方とハードな修行をしている敵


(1)で述べたジャンプ漫画の世界観・作風とスーパー戦隊シリーズで築かれてきた世界観・作風のすり合わせに失敗した本作はもう徹頭徹尾ヒーロー側に関しては完全に失敗です。
最先端の科学で修行しているゲキレンジャー側に対して、古臭い昭和のスポ根スタイルで頑張る臨獣殿というのもおそらくは意図的な対比として組まれたものでしょう。
しかし、この設定が成功しているかというとそうとは言えず、大人のファンはともかく子供たちからしたらヒーロー側がぬるい修行をしている、つまり真剣味がないように見えてしまうのです。
しかも序盤は一旦敵に負けて修行を積んでからのリターンマッチという形が多いので、どうしてもゲキレンジャーが弱く情けないヒーローという風に写ってしまいました。


これも当然ながら意図的な「ドラゴンボール」のオマージュ(というかパロディ?)であり、師匠に教わりながら効率よく強くなる悟空に対して我流のやり方でいまいち強くなれないベジータの対比のつもりでしょう。
しかしあれが通用したのは(1)でも述べたとおりギャグを基本とする鳥山ワールドらから通用したのであって、それを安易にスーパー戦隊シリーズで真似して通用するものではありません。
元々は1つの流派だったものが2つに分かれるのも亀仙流と鶴仙流の違いなのでしょうけど、敵の方が圧倒的に説得力があるかのように見えてしまった時点で本作は失敗なのです。
しかもその敵組織が目標としているのも「悲しみや嘆きの声を聞かせる」ことであり、やってることがものすごくショボいので全然世界の運命をかけた戦いには見えません。


もちろん世界の運命をかけた戦いでないというのであればそれはそれで構いませんが、だったらもっと用意周到に初期設定の段階からきちんと世界観や設定を詰めておく必要があります。
拳法同士で、しかも敢えて「個VS個」をベースにした戦いを描くというのであれば、筋の通った土台や世界観を用意する必要があるのですが、そこが上手くいかなかったのでしょう。
そのせいで、結果として完全に時代錯誤なズレたことをやっているという悪印象だけが際立ってしまい、全く面白みのない作品となってしまいました。


(3)「みんなを守る」とは果たして誰のことを指しているのか?


さて、そんなゲキレンジャーはいわゆる激気(げき)を力の源とし、2クール目に入ると過激気(かげき)を習得して更なるパワーアップを果たしますが、これはもちろん超サイヤ人のオマージュです。
そもそも「ドラゴンボール」の超サイヤ人という覚醒(変身)自体がスーパー戦隊シリーズの変身から輸入したものであり、本作はそれを逆輸入した形になるのですが、ここでジャンは「みんなを守る」と口にします。
これはものすごく違和感のある展開であり、そもそもここでジャンが口にしている「みんな」とは誰のことを指すのか全くピンと来なかったし、なぜジャンがそんなことを口にするかもわかりませんでした。
少なくとも孫悟空は一回も「みんなを守る」なんて言葉を口にしたことがなく、彼が戦うのはあくまでも「強いやつと腕を競って戦いたい」という武道を通じたコミュニケーションだからです。


しかし、それまで自分が何のために戦っているのかという「戦いの動機」と向き合う話が描かれて来なかったために、どうしてもジャンが口にする「みんなを守る」が単なる綺麗事にしか聞こえません。
おそらく作り手の意図としては最初は個人の自由のために戦っていたジャンが今度はみんなを守るために戦う、つまり「内的(=私的)動機」から「外的(=公的)動機」へのスライドを行おうとしたのでしょう。
それこそ最終的には世界や宇宙すら守るようになっていた孫悟空のように…しかし、悟空がそうなっているのはあくまでも「結果論」であって、彼自身はそんな戦いなんて本当はしたくないのです。
ジャンも本来ならそんなキャラのはずなのに、突然世界の運命のために戦うというのを口にすることに私は耐え難い違和感と生理的嫌悪感を覚えてしまい、あまりにも胡散臭く思えてしまいました。


「みんな」とは誰のことを指すのでしょうか?そこには誰が含まれていて、誰が除外されているのでしょうか?そこを具体的に定義しないと、結果として「自分にとって大切な人だけを守る」ために戦うことになります。
実際ジャンが自分にとって大切な仲間以外のために戦ったことはほとんどないですし、しかもそれでいてなまじヒーローとしての正義を標榜している分ボウケンジャーとサージェスよりもタチが悪いのです。
ボウケンジャーとサージェスは決して正義の味方ではないアウトローですが、ただアウトローなりに筋は通っているし、メタフィクションとしてのヒーローものとしてよく出来ていたと思います。
終盤のまとめ方の段階で日和ってしまい微妙だった感じではあるものの、ヒーロー像の構築に関してはかなりやるところまでしっかりやった作品ではありました。


本作はそもそもの土台がガタガタな上でこの大惨事ですから、その上に何を積み重ねたところで空虚なものにしかならず、ジャンたちのセリフや行動が全く伝わってきません。
別に使命感や正義に目覚めるならそれでもいいのです、しかしそれならそれで最初から用意周到にそういう「戦いの動機」と向き合う話を序盤から丁寧に作る必要があります。
それすら出来もしないでただ何となくで大して詰めもせずに見切り発車で作ってしまうから、結局は失敗作の典型を地で行く形となって墓穴をほってしまったのです。


(4)実質の番組名は「ふたりは臨獣拳士」


ただし、ヒーロー側はズタボロであった分、ヴィラン側に関しては魅力的に描けていて、特に終盤では黒獅子理央とメレの拳断で主役級のエピソードが用意れています。
なおかつ、この2人の絆に関してはゲキレンジャーたちと違って初期から気合を入れて描写しているので、完全にヒーロー側を食ってしまう程の存在感なのです。
はっきり言って、本作はもはや「獣拳戦隊ゲキレンジャー」ではなく「ふたりは臨獣拳士」だったのではないでしょうか?だってどう考えても「ふたりはプリキュア」じゃないですか、構成が。
リオはダークヒーローとして筋をきっちり通しましたし、メレもメレでドSな憎まれ役からリオの前でのしおらしいヒロインぶりまで八面六臂の大活躍を見せています。


しかも演じている荒木宏文氏と平田裕香氏もまた演技達者なので、この2人のややダークなラブロマンスとして見れば、かなりしっかりした文芸作品にはなっているのです。
放送当時からかなり酷評されている本作が近年再評価されている部分もまさにここであり、基本的にヴィラン側に興味がない私でも彼らは戦隊屈指のよく出来た敵であると思います。
ただし、あくまでもそれは単品として見れば面白いですが、それが作品全体の面白さに寄与しているのかというと、決してそういうわけではありません
最初の方でも書いたように、ヴィラン側の存在というのはそれを迎え撃つヒーロー側との対比によってこそそのかっこよさが際立つものであるべきです。


本作はそこをすっかりおざなりにしてしまっており、敵側であるリオメレを立てたいがためにジャンたちゲキレンジャーを完全にスポイルしてしまっています。
それを意図して狙ったというのであれば確かに目論見は成功していると言えますが、こんな極端なことをした代償で玩具売上どころか視聴率までさらに前作からガタ落ちしました。
まだ打ち切りにならなかっただけ御の字ではありますが、本作が予算を贅沢に使った割に数字の回収ができなかったために、とんでもない損失が出てしまったのです。
このあまりにも極端な破綻ぶりは「アバレンジャー」以来であり、おかげで翌年のスーパー戦隊シリーズはまたもや低予算でチープ感漂うものとなってしまうのでした。


(5)まとめ

 

シリーズ31作目となる本作は前作「ボウケンジャー」とはまた違う路線で、今までにやったことのないさらなる挑戦や変革を行いたかったという野心は伺えます。
しかし、その野心は敵側のリオメレのキャラ立ち以外では結実することなく、あとはストーリーもキャラクターも数字も何もかもがズタボロな結果に終わりました。
まあこの教訓が次作「ゴーオンジャー」に活かされているのだとすれば無駄ではなかったと言えますが、何とも痛い結果に終わってしまったのです。
総合評価はF(駄作)、良くも悪くも「野心がありさえすればそれでいいわけじゃない」ということを教えてくれたシリーズ屈指の反面教師ではないでしょうか。

 

 

獣拳戦隊ゲキレンジャー

ストーリー

F

キャラクター

E

アクション

D

メカニック

F

演出

F

音楽

D

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

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